Masaya&Haruka Wedding Party

ウェルカムボード用のイラストかきました。

design:keitato suzuki

東京スーパースターズ/Tシャツ

東京スーパースターズのTシャツ用に絵をかきました。シマネの女の子のスピンオフぽい感じ。ジャケにはないアクティブな感じに。

こちらは原画。

東京スーパースターズ/シマネ

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東京スーパースターズの1stシングルのジャケット絵をかきました。ボーカル/ギターの仲野君とは、吉祥寺で偶然会って数分世間話をしたことがあるのですが、そのときの ここだけ時間の流れが違う感 今でも印象にのこっています。京都時間と呼んでいます。2曲目の「やさしい日々」はクライムザマインドという素晴らしいバンドのボーカルの方のソロプロジェクト 果てな の名曲で、ちょうどこの話をもらう1週間前ぐらいに、この曲をくりかえしくりかえし聴きながら絵をかいていました。そのくりかえしの総量が閾値を超えて、何がしかのアンテナにひっかかったものと思います。

今日リリースパーティを見てきたのですが、とてもよかった。曲の持っているあたたかさを消して、消す、ことで、別のあたたかさを浮きぼりにするかのような。いわゆるやさしさと違うところに、もうひとつのやさしさを発見するような。そんな感じです。ややエキゾチックでやさしい手触り。そしてDoor。すばらしかった。月刊仲野も要チェックです。

アルバムは2015年の3月に出る予定だそうです。http://nknkn.beauty-information-site.com/wordpress/

1.シマネ 
2.やさしい日々(Originally by 山内幸次郎)

engineer by 林惇太
Illustration by 仲村直
Designed by 篠沢幸一

デビルズレボリューション/Tシャツ

グラフィックデザインTシャツブランド「El Topo Online Store」で新たにTシャツ1枚販売されています。「デビルズレボリューション」です。あくまシリーズ。

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下記は説明用のテキストです。

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デビルズレボリューション

あくま稼業などごめんと飛び出した
あくまたち、足を洗うことを決め、
目的も決めずに車にのりこんだ。

忘れ物はないか、
もう二度と戻らないぞ、
やめるなら今だ、
これはドライブじゃない、
あくまの革命だ!

ヘッドライトは照らす、
あくまたちの行く先、
まっくらやみの夜道を行く、
反対車線もゴーゴーゴー。

行く先はユートピア?
それともデストピア?
いーえ、デストピアこそユートピア。

なぜなら僕たち、あくまだからさ!

El Topo Online Store

死の二重構造/心霊と心霊性(悪魔のしるし/悪魔としるし)

2013.9.22 「悪魔のしるし / 悪魔としるし」相鉄本多劇場

心霊がテーマ。死者らしきものが出てくる。だが、舞台の上の配役は死者である、といった話、よく聞く話だ。そうなってくると、劇中の生者も死者も、どっちがどうなのやら分からなくなってくる。そして、そうなってくると、劇中に出てくる死者は、いわば死者の中の死者である、とも言えてくる。演者 - 配役(死) - 死者(死)という、そうだ「死の二重構造」だ(東浩紀/ゲーム的リアリズムの誕生にも「死の二重性」という言葉が出てくるがそれはまた別の話だ)。

配役という死者を呼び起こし、演じる。しかしその死者は物語の役柄としても死者である。虚構という世界の死者と、物語という世界の死者が入れ子構造になっている。それは、もはや、死なのか。物語上の生者を扱う、これは、生きている人間を演じる。日ごろの僕らのような生きた人間を演じる。しかしそれは虚構であって生者そのものではない。そしてそこに、抜け殻のように、おおいかぶさるように、配役としての死者がある。

しかしそれは、虚構のキャラクターを演じている時点で、そこに違いはないのかもしれない。しかし。舞台上の虚構としての役柄は、死者であって死者ではない。自らの身体性を使って生者を演じる。そこに身体性がある。その身体性で、死者を演じるとはどういうことなのだろうか。それは死者になったら分かるだろうか。わたしは死者としての身体性を持っていない。

頭のほうの話に戻る。劇中の生者も死者も、どっちがどうなのやら分からなくなってくる。誰が死者(心霊)なのか分からなくなってくる。

「あの人」は心霊ではないか。年号が変わり、よって今は生きていない(生きていないから年号も変わった)。革命家ももしかしたら過去の存在であり、生きていないかもしれない。その日のアフタートークで危口統之が「この町の中にも死者がいるかもしれない」というようなことを言っている。現実も舞台上も、誰が生きていて誰が死んでいるかなど、結局のところ分からないのだ。

それを明確にしたシーンはあった。心霊写真。目隠しと赤い丸。生者(というか霊に近い存在)は目隠し、心霊は赤い丸。それにならえば、赤い丸の中を凝視すればそれがそれである。それは最終シーンのフラグにもなっている。

「心霊」と「心霊性」。一方で心霊性のない心霊がおりまして、他方で心霊性のある生者がおるわけでして。あの人、イタコには心霊性があり、たかやまれいこには心霊性はなかった。心霊の本質的部分を担っているのが心霊性か。母と母性のような。実の母でなくても、母性は存在する。現実界の母と、象徴界/想像界の母。母は、子どもが生まれる前は母ではない。生まれた瞬間に母になるのだろうか。突如変わったりするものなのだろうか。実感とともに母になっていくのか。母とは、あくまでも社会的に名づけられた記号であって、むしろその本質を担っている母性的なものが、母という記号に昇華されていったのでは。そういう意味では母性なるものが真実ではないか。そして、今日も心霊性のない心霊は存在し、心霊性を持った非心霊は存在しているというわけだ。

パブリックイメージ(の中に自分を放り込む)

SEBASTIAN X 永原真夏のインタビュー。自分が「パワフル」「元気」「可愛い」というパブリックイメージを持たれていて、それが嫌いでコンプレックスだったけど、いざそれを解放し全面に出してみたら、何かそうじゃないところも解放された気がした。というような話をしていた。

そそられる話だ。これは、自分のいやな一面を勇気を出してさらけ出すことで、「その一面」における問題が解決される、ということとは違い、その一面とは「別の一面」に作用がはたらいた、ということだ。

自分としてはいやなところでも、細胞側としてはそこに好悪は存在していない。いやなところを解放したその「解放性」が循環し、他の細胞にも作用をもたらし、そして解放されていく。イヤなところを隠す、または抑えつけたとき、抑えつけられることで細胞のダイナミズムはうしなわれる。循環は停滞する。自分としてはいやなところ、悪だとしても、細胞側からしたらそれは抑圧されているだけだ。ここには好悪を超えた解放性のダイナミズムがあるのだと思う。

自らのイヤなところを解放させると、その解放性の循環により、自分の思いもよらない一面への作用がはたらく。イヤなところの解放であるため、内包される葛藤、さまざまな感情などによりその効力は大きいかもしれない。わたしのきらいな自分は、わたしの好きな自分をどこか違うところへ連れて行ってくれるかもしれないよ。

パブリックイメージとは社会に向けた顔。自らの一面がパブリックイメージとなる。それに対して本当の自分は違うのに、となげくのではなく、その「パブリックイメージ」の渦の中に、自分自身をほおりこむ。分人と言ったのは平野啓一郎であった。暗い自分も、明るい自分も、どっちも自分である。暗い自分はきらい、明るい自分は本当の自分じゃない、という捉え方は、細胞を停滞させてしまうのではないだろうか。ならば。暗い自分を。明るい自分を。自由に、解放させるのだ。その解放性は、暗い自分が明るい自分に対してお前明るくていいな、と伝えれば、明るい自分は暗い自分にそんなお前もきらいじゃないぜ、と申し上げるのである。

他者との関係で生まれた「パブリックイメージ」という箱の中へ、自分をつまんで放り入れる。それで自分を見失ったとしても、それはそもそも自分ではなかったし、どれもが自分であった。だからセバスチャンXの人はDNAという楽曲に合わせて自分の装飾をやめる。自分自身を「DNA」の中に放り込んだのだ。